The brain




「ナル」

 僕の名を呼ぶ麻衣の目元が潤んでいる。
 声音も、どこか甘さを含んでいた。


    ☆


【無視して、書斎へ行く】
『な、何言っているんだよ。こんなふうに名前を呼ばれたら、無視できないだろう』
[俺、気になっているんだよね。あの本の続き]
【僕も、本の続きが読みたい】

 大画面に映る彼女の表情を見ながら、円卓に座る人物。
 オリヴァー・ディビスの脳名では、会議と言う名の討論が繰り広げられていた。


 当人にソックリな顔立ち。
 そして、体型も同じだが、発言している口調は微妙に違う脳内住人達4人は、各々思ったことを口にしている。



 眼鏡をかけた人物が、組んだ指を顎下に置き、肘を机に乗せて居丈高な声で命令する。

【無視して、さっさと歩き出せ】
[それがいいな]

 その発言に同意するのは、髪が少しだけ緩くウェーブしている男だった。

『だ、駄目だよ。マイチャン可哀想じゃないか』

 どこか、自信が無いように目線をキョロキョロと彷徨わせながら喋る人物が否定の声を上げる。

【何が可哀想だ。時間の無駄に付き合う気は無い】
[そうだな。では、決定ということで]

 二人が、決議終了とばかりに、席を外そうと腰を浮かせたところで、今まで沈黙していた人物が声を張り上げた。

≪待った!≫

 手を上げて主張している人物を、眼鏡をかけた男が冷やかに見詰める。

【何故、止める】

 眼鏡のブリッジをクイッと軽く指で押し上げて、見下すような視線を相手に向ける。
 それに対して、左手を口元にあてた人物が、溜息を吐き出す要領で、言葉を口にした。

≪アンタたち男って、勝手よね≫

 この言葉に、傍にいる男が、すかさず言い返す。

[オマエだって、男だろう]
≪あら、アタシ心は女なのよ≫

 左手の小指がピンと反り返り、その人物の為人を表していた。

【 ・・・・・・ 】
『 …… 』
[・・・、・・・]

≪あんな縋るような目をされて、無視するなんて男じゃないわ≫

 三人の沈黙を無視して、話を続けている。

[いや、俺たち全員男なんだが]

 言葉は強気だが、椅子に座った腰は、完全に引けている。

≪何、言っているのよ。この分からず屋。麻衣ちゃんが可愛くないの≫

 卓上に両手をついて、身を乗り出している人物に、横にいる男も吃りなから加勢する。

『そ、そうだよ。マイチャンは可愛いんだから、ここはキスするシーンだよね』

 この言葉に、鼻で笑うのは眼鏡の男だ。

【馬鹿言うな。麻衣の可愛さよりも、気になる本の続きが読みたいんだ。僕は】
[俺も、それに賛成。無視して、とっとと書斎に籠れば、マイはそこまで追ってこない]

 こちらも、眼鏡の男に加勢するように、緩ウェーブの男が助言を与える。

『ヤ、ヤダ。マイチャンにキスしたい!』

 イヤイヤと首を振って否定する男と、何も解ってないのよねと、吐息を付きながらも言いたいことは黙らない人物は、ピシッと横にいる男に指を突きつけた。

≪即物的すぎるのよ。アンタは。ここは黙って抱きしめるが正解よ≫


   ☆


「麻衣」

 名を呼んで、自分の胸元へと引き寄せる。


   ☆


[うわぁぁぁ。やっちまった]
【馬鹿、とっとと麻衣を離して、本を取れ】
『ヨ、ヨシ、ここで、一気にキスして押し倒せ。オリヴァー』
≪ダメよ、性急すぎるわ。ここは、ギュッと抱きしめて、麻衣ちゃんの匂いを嗅ぐの≫

 各々、4人が、本体の行動を見て、声を張り上げる。
 しかし、最後の人物の発言に、ひっかかりを覚えたようだ。

【変態すぎるだろう、その行為は】

 眼鏡の男が、顔を顰めている。

[匂いを嗅ぐくらいで、ヘンタイ呼ばわりはナイだろう]

 緩ウェーブの男が、それを否定する。

『エ、ぇええ!ボク、そんなんじゃ我慢できない!』

 気弱さなど何処かに置いてきたように、ハッキリと主張を押し出している。

≪いいじゃない。匂いを嗅ぐくらい。靴下脱がせて、足の裏の匂いを嗅ぐわけじゃないんだから≫

 どこまでも、思ったことを口にする人物は、ある意味とても素直なのだろう。
 しかし、それが万人に受け入れられるかというと、そうでもなく……。

【それこそ、変態だろう】

 眼鏡の男が、非難の声を上げる。

[ヘンタイは止めろ]

 本体が、そんなことするわけないだろうと声高に訴えられる。

『ク、靴下より、下着の方がいいよ』

 頬をバラ色に染めて、ウットリと呟かれた。

≪だ・か・ら、ギュッと。がいいのよ。女の子は≫

 綺麗に磨かれた爪を、自分以外の3人に、それぞれ指差して微笑む人物。

 結論が出ないまま、彼ら脳内の会話は続いていた。


   ☆


「ナル」

 胸元に引き寄せられたまま、何も言わず、動きを止めてしまった相手を窺う。

「どうしたの?」
「それは、こっちの台詞だ。麻衣こそ、何かあったのか」
「ううん。別に何もナイよ」


   ☆


 大スクリーンから、彼女の声が聞こえてくる。

【ほら、何も無いと言っているだろう。このまま、麻衣を放置して書斎へGO!】

 コホンと咳を一つして、自分の主張を押し通す。

≪馬鹿ね、何もナイわけないじゃない。麻衣ちゃんの目元が潤んでいるのが分からないの≫

 呆れたと目線で告げながらも、口を挟むのを忘れない。

[自分の様子を見て、気が付いて欲しいアピールされても、無視して本を手に取れ]

 もう、いい加減、この会話に飽き飽きしている様子だ。

『ダ、ダメだよ。ココは、マイチャンの気持ちを聞いた方がいい』

 先程の勢いはなく、バラ色に染まった頬は、元通りになっている。

≪そうよね。女の子の気持ちを無視するなんて最低行為だわ≫

 本当に、嫌になっちゃうわと、折り曲げた左手の小指を唇に押し当てる。

【最低でも、いい。僕は、本を取る】
[俺も、自分の時間を満喫したい]
『ぼ、僕は、マイチャンと一緒にいたい』
≪アタシも、麻衣ちゃんといたい≫

_____ 脳内では、意見が真っ二つに割れています。
_____ さて、どうなるのでしょうか。


   ☆


「あのね。本当に、大したことじゃないの」
「大したことじゃないのなら、言えるだろう」

 僕がそう言うと、胸元から麻衣が顔を上げた。
 その頬が、真っ赤に染まっていて、その赤味へと、思わず手を伸ばす。

 その頃、脳内はというと……。


   ☆


【うわっ、馬鹿。触るな、これ以上】
『ヨ、ヨシ。オリヴァー、そのままキスしちゃえ』
[アホなこと言うな。今日は本とデートしたいんだ。マイには悪いが、話はまた後日聞くということで]
≪女の子に対して、どれだけ冷徹なこと言っているのよ。あぁ、フニフニした頬を抓んでやりたいわ。アタシのこの手で≫


_____ 彼女の感触に、4人共いろいろと思うことがあるようです。


   ☆


 麻衣に触れた指先が熱を感知したまま、その範囲を掌にも広げていく。


   ☆


[オワッタ。これで、もう本を手に取ることは出来ない]

 頭を抱えて唸り声を上げる。

【いや、まだだ。まだ、大丈夫。頬に手をあてただけじゃないか】

 拳を握りしめて、力説する。

『ウ、うわ、マイチャン。頬、熱いね』

 自分の両頬に手をあてて、比較している。

≪ここは、おでこにコツンが正解よね≫

 この人物が口を開いたと同時に、本体が動いた。


   ☆


「熱はないようだが。いや、少しはあるのか」

 額を互いに合わせて、麻衣の熱を計る。
 触れた皮膚は、頬よりも熱さを感じさせるものではなかった。

 どちらかというと、ヒンヤリとしていたはずだ。
 だが、触れた途端に、先程まで感じていた体温が上昇しているのに気が付く。

「麻衣」

 間近で彼女の顔を見れば、頬だけでなく、身体全体が真っ赤に染まっているようだった。


   ☆


≪ほら、見てよ、麻衣ちゃん。項まで真っ赤よ≫

 楽しげに呟くと、周囲はそれぞれ反応を返した。

【どこまで見る気だ!】

 憤りに声を荒げたり。

『だ、たって、オリヴァーも気になっているみたいじゃん』

 本体を支援したり。

[俺、抵抗するのが空しくなってきた]

 ヤレヤレと掌を上にして、肩を竦めたりしている。

【僕は、諦めない。気になるんだ、あの続きが、いますぐにでも、読みに行きたい】

 それでも、この眼鏡をかけた人物だけは、初志貫徹を忘れていなかった。

≪諦めたら、いいのよ≫
『そ、そうだよ。諦めなよ』
[俺も、段々、そう思えた。諦めた方が楽になれるぞ]
【誰が、諦めるか!】

 円卓の席を立ち、大スクリーンの前で、彼女の姿を見ている。
 嬉しそうな者。苦虫を噛み潰した表情の者。諦め顔の者。ワクワクとした期待に満ちた者。
 誰もが、彼女の一挙手一投足に注目している。


   ☆


「麻衣」
「ナルぅ」

 鼻にかかる声。
 彼女の熱が、接している皮膚から伝染してきたかのように、僕に移っていく。


   ☆


『ホ、ホラ。オリヴァーもボクたちの方に意識が傾いている』
≪そうよね。このまま、麻衣ちゃんを美味しくいただいてもいいわよね≫

 嬉しげに言う二人に、横にいる男が声を荒げた。

[おい、自称心は女。美味しくいただく気なのかよ。マイを]
≪当たり前でしょう。据え膳喰わぬは、何とかって言うんでしょう。日本では≫

 言い合う二人を冷然と見下して、眼鏡の男が発言する。

【そんなことはどうでもいい。それよりも、本が読みたいと言っている】
≪いいじゃない。一発抜いた後に、読んだって≫

 言われた内容にも態度にも、自称心は女が怯まず言い退ける。

【そんなことしたら、読書にあてる時間が極端に減るじゃないか】

 こちらも、自分の主張を曲げず押し通す。

≪あら、この子の身体にはちょうどいいじゃない。溜め込んでも仕方がないし、適度に発散させておいた方が何かと楽よ≫
『そ、ぞうだよ。ボクもマイチャンに触りたい』
[オマエら、欲望に素直すぎ。マイの身体を触るのもいいけれど、俺としては、本も読みたい]

 先の二人に、賛同しつつあった緩ウェーブの男も、当初の主張を押し出した。

【どれも、却下。却下だ。麻衣に触れながら、本を読むのは不可能だし、麻衣に触れたら、本のことなんて忘れてしまうじゃないか。本を読んでから、麻衣に触れるのでは駄目なのか】

 自分以外の3人の主張をことごとく否定して、自分の主張を固持する。

≪何、言ってるのよ。この朴念仁。いま、目の前にこんな美味しい麻衣ちゃんがいて、手を出さず、指も咥えず、黙って見逃せと言うの。アンタって、本当に、学者馬鹿なんだから。ジーンが草葉の陰で泣いているわよ≫

 突然出てきた、兄の名前に怯みつつも正論を口にする。

【ジーンは、関係ないだろう】
≪あるわよ≫

 噛みつくように反論された。

『ジ、ジーンなら、どこかで、ボクを見ているかもね』
≪ヤダ、弟の濡れ場を見るわけ≫
[マイの濡れ場だろう]
≪あぁ、そっちか、それならアリかも≫

 3人の会話に、眼鏡の男が思わずといった態で口を挟んでしまう。

【アリなのか】

 呟いた言葉は、横にいた男に肯定された。

[アリそうだな]


_______脳内は、段々、まともな判断をするのを放棄しつつあります。


   ☆


「あ、あのね。あたしね」

 麻衣が、目を瞑って何かを言い出そうとしている。
 しかし、それは、僕を誘っているとしか思えない仕草で。


   ☆


【あぁぁぁぁああ!】
『ヨ、ヨクヤッタ。オリヴァー』
[マイの唇、柔らかい]
≪もう、せっかちね。最後まで麻衣ちゃんの話を聞いてあげなさいよ≫


   ☆


 緩く閉ざされた唇を開いて、中まで舌を侵入させる。


   ☆


【もう、駄目だ】
[きもちいい]
『も、もっと、味わいたい』
≪ほら、逃がさないように、固定しないと≫


   ☆


 麻衣の後頭部に手を回して、抑え込む。
 息継ぎをする為に、離れていく唇を追いかける。


   ☆


[このまま流れ込もう]

 当初の主張をすっかり忘れて、今の現状を堪能するべく動こうとする。

『ウ、ウン。イイネ』
≪何がいいのよ。ここじゃあ。ダメよ。ベッドじゃなくちゃあ≫
【書斎でいい。書斎でさっさと終わらせて、本を読む】

 眼鏡の男も、もはやどう抗っても無理そうだと理解したようだ。
 それでも、次に繋げるべく行動を起こそうとしていた。

[書斎でなんて冗談じゃない]
≪そうよ。寝室に行かないと≫
『エ、エー、ココでいいよ』


 ぞれぞれの主張が、脳内を交錯する。


   ☆


 麻衣の腰にも手を回して、身体が逃げないように固定する。

「ん、ふぅ」

 何度目かの息継ぎの時に、漏れた声が艶を帯びている。
 さて、どうしてくれようか。


   ☆


『コ、ココでヤルに一択』
[絶対に、嫌だね。シャワールームでシタ方が、後々、楽だろう]
≪ダメよ、絶対に寝室です≫
【どれでも、早く終わればいい】

 言い合っている3人の主張に、眼鏡の男が投げやりに言葉を返す。

≪何て適当なの。男って、本当に勝手すぎるわよ≫

 眼鏡の男だけでなく、他の2人の発言にも、自称心は女の人物は腹を立てているようだ。

『す、すぐに、デキればいいよ』
[後始末を考えれば、バスルームの方がいいだろう]
≪避妊具をすぐに取れる場所と言ったら、寝室でしょう。麻衣ちゃん妊娠させる気なの。アンタたち≫

 この言葉に、ハッとした表情を浮かべる男たちがいた。

[そういえば、排卵期か、マイは]
『う、うぁ、ソウだった。マイチャンの周期なら、いま、そうだよね』
【ちょっと待て、今、麻衣が排卵期ということは】


 青ざめた顔で、大画面を見詰める男たちが見たモノは……。


   ☆


「麻衣。寝室へ行くか」

 クタリと身を預けている麻衣の耳元へと、言葉を落とす。
 ヒクリと喉を仰け反らせる姿に、軽い興奮を覚える。

「麻衣」

 再び、耳元へと囁けば、下から見上げる麻衣の瞳に捕まった。


   ☆


[ヤル気だ]

 ブルブルと緩ウェーブの男の身体が震えている。

『マ、マイチャン、襲う気マンマンだ』

 こちらも同様の姿で、胸の前に指を絡めて祈りのポーズを取っている。

【だから、麻衣を無視して、書斎へ逃げ込めばよかったんだ】

 諦観の境地には達せれず、無念とぱかりに愚痴を零している。

≪避妊しなさいよ。ナル≫

 こちらは、現状を受け入れて、本体にアドバイスを告げていた。


   ☆


「麻衣、寝室へ行こう」
「我慢できるの、ナル」

 麻衣が挑発的な笑みを浮かべる。
 その口元に目が吸い寄せられる。

 白い歯と赤い舌が、小さな口元から覗いている。
 先程の口付けで、テラテラと濡れた唇が、僕を誘っていた。


   ☆


【我慢だ、今は、手を付けるんじゃない】
[そうだ。マイに理性を取り戻させるんだ]
『コ、ココは、抑えて、オリヴァー』

 3人とも、両手の指を広げて、待て、待つんだと抑えのポーズを取っている。

≪もう、本当に馬鹿ね。こうなったら、大人しく食べられるしかないわよね≫

 頬に片手をあてて、キャッと嬉しげに言う人物に、キッと眼鏡をかけた男が振り返る。

【美味しく、いただくのは、こちらのはずだ】
≪美味しく、いただかれるの間違いでしょう≫
[マイと会話して理性を取り戻させる]
『ム、ムリっぽい。あぁ、もう、とっとと押し倒せばよかったのに』
≪どのみち結果は一緒でしょう≫


   ☆


 ごちゃごちゃと煩い脳内を無視して、麻衣に微笑む。
 こちらの笑みをどう取ったのか、麻衣が距離をゼロにするために、近づいてくる。

「腰が痛いと文句を言っても受け付けないからな」
「それは、ナルが、でしょう」

 会話する吐息が互いの湿った唇に触れる。
 その距離を保ったまま、更に、言葉を発する。

「オマエ次第だな。麻衣」

 互いの顔をはっきりと認識できない近さで、その後に囁かれた会話は、途中でフツリと消え、後は濡れた音を室内に、響かせるのみだった。



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